2009年3月3日、前民主党代表の小沢一郎氏が
「国策捜査だ!」との声を上げなかったら、これほどまでに検察批判、マスコミ批判は拡がっていなかっただろうと思う。
大久保秘書の逮捕直後、間髪を入れず反論したということは、心理学の観点から見れば「やましさ」がないことは明らかである。
この阿吽の呼吸が、検察や当時与党だった自民党への疑いへと繋がっていった。
もし、あの時前代表が反論をしなかったら、疑惑のまま葬られていただろう。
声を上げると言うことは大切であるとつくづく思う。
少し前にあった障害者割引郵便悪用事件の公判が現在行われているが、またもや検察の冤罪の可能性が濃厚となっている。
大久保秘書の公判と同様、検察の創作したストーリーが裁判の場でことごとく覆っている。
また、先日は高知白バイ事件で冤罪逮捕されたのバスの運転手・片岡氏が刑期を終えて出所している。
この国はまるで冤罪天国の様相を呈している。
中でも、決してそのままにしてはいけないのが、「和歌山カレー事件」であろう。
ずさんな捜査と脆弱な状況証拠だけで、死刑判決が出てしまった。
警察や検察のみならず、裁判所までもが正常な判断を欠いているとしか言いようがない。
昔、
「無罪の人間を有罪にしない」ことに重きを置く裁判官が居たと言う。
「有罪の人間を無罪にしない」ことと、
「無罪の人間を有罪にしない」ことのどちらに重きを置くのか?
裁判官の永遠のテーマかもしれない。
ただ、
「有罪の人間を無罪にしない」ために、
「無罪であるかもしれない人間に死刑判決」を下すことは、明らかに行き過ぎであろう。
和歌山カレー事件を冷静に見れば、林真澄被告以外の人間にも、事件を起こせることがわかる。
にもかかわらず、林被告が「犯人」とされたのは、単なる「運」でしかない。
「たまたま1人で居た」という不運。
そして、捜査当局はつじつまを合わせるように、状況証拠のストーリーを組み立てていった。
更に、それを後押ししたのがマスコミである。
明らかに林被告が犯人の如く報道された。
高知白バイ事件のように・・・・・・
この事件をこのままやり過ごしてしまっては、絶対にいけない。
しかし、犯人のように報道したマスコミは、自らの非を認めたくないがために沈黙・・・
見ず知らずの人間の命だからかまわないというのだろうか。
自分の身内にこのようなことが起こらないと、大変なことなのだとわからないのだろうか。
小沢幹事長が嫌われ、憎まれながらも、声を上げ続けることで、このような冤罪が繰り返されないように、白日の下に晒されているという現実がある。
説明責任だの辞任だの叫ばれながらも、この国の膿を出しているのは事実である。
改めて小沢幹事長に敬意を表したい。
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